「南セントレア市」は「合併」そのものが破綻!
「南セントレア市」という「新市名」採用を巡って…
混乱を招いていた愛知県「美浜町」と「南知多町」では
2月27日「合併の是非」を問う「住民投票」が行われ…
即日開票の結果!合併そのものが「破綻」したとか!
【南セントレア市めぐり合併問う住民投票、反対が過半数】(asahi.com)
愚図愚図と酔いしれて…【053】
F小学校には、多くの在日朝鮮人の子供達が通っていた。その存在を勲は、この時点では全く知らない。
一九一〇年の【日韓併合】以前から、日本には留学生や季節労働者として働く朝鮮人が在留していた。その数は併合後に急増し、一九二〇年代以降は定住化が進んだ。日本に渡った人々の九割以上は朝鮮半島の南部地域―現在の韓国の慶尚道、全羅道、済州島―などの出身で、中でも済州島出身者は最盛期といわれる一九三四年の調査では、全人口のほぼ五人に一人が日本で生活していた。
済州島出身者の多くは、大阪とその周辺に定住した。特に猪飼野地域―大阪の在日朝鮮人が集住する地域の名前。一九七三年の町名変更により、現在「猪飼野」という町名は姿を消した―は『小さな済州島』と呼ばれる程の集住地域となった。
一九二四年の調査によれば、在阪朝鮮人のうち済州島出身者は六〇パーセントに達していたという。勲の住むH区と南に隣接するI区一帯は、古来より「百済郡(くだらごうり)」と呼ばれ、朝鮮半島からの渡来人ゆかりの地でもあった。
勲の家の西一本目の筋、有沢農機の敷地を南北にえぐる様に三軒長屋がある。その真ん中の家に、在日朝鮮人の老夫婦が住んでいた。おばあさんは、白髪頭を後ろで束ね、いつも生成りのチマ・チョゴリを着、先がちょこんと尖った白い朝鮮靴を履いていた。近所の長屋の子供たちは、そのおばあさんの姿を見かけると、合唱する。「ちょせん、ちょせん、ぱかするな、おなち飯喰て、とこちかう…靴の先が、ちょと、ちかう!」そう言って、退散する。
下校時、勲は初めてその光景を目にした。そんな遊びをしたことが無い。家に帰って早速、母に今見たことを問う。「お母ちゃん、ちょせん、ちょせん、ぱかするな…」「止めなさい!誰にそんな唄、教えてもろたんや!」「あそこの長屋の子ぉらが、うとてたんや」「あの子らとは、絶対遊んだらあかんよ、分かったね!」凄い剣幕で母に叱咤される。
母が勲の質問に答え無かったのは、二度目だ。F駅の地下道で哀しいメロディーのアコーデオンを奏でていた、傷痍軍人―。
勲は幼心に、傷痍軍人と在日朝鮮人のおばあさんと、どんな関係があって母が口を噤むのか、不思議でならなかった。
その疑問は、中学に入学してから知らされる事となる。


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