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2005.01.01

愚図愚図と酔いしれて…【一挙掲載版】其ノ五

愚図愚図と酔いしれて…【041】

 日曜日―午前十時、勲はとびっきりにやつして、操を迎えに行く。駄菓子屋「権兵衛」の二軒東隣りに「山本プラスチック工業」の工場と居宅はある。「おはようございます!」鉄筋三階建ての外階段を上がって、三階の玄関ドアを開け勲は挨拶する。鉄筋三階建てに外階段―家の造りからして、金持ちでモダンだ。「ハ~イ!」こちらもやつした洋服を身に纏った操が玄関ホールに姿を見せる。「可愛らしいなぁ…」思わず小さい声が、咽喉仏から染み出る。「おはよう!藤田クン、操のことよろしく頼みましたよ」操の後ろで操の母が微笑む。「…ハイ!」直立不動の勲を見て、操は「フフッ」と声を漏らす。家全体の雰囲気が藤田家とは、何か違う。
 山本家を出て二人は深江橋のバス停に向かう。勲の家の前を通り過ぎようとすると、母が玄関から顔を出して「勲、道草したらアカンで!」と声を掛けてくる。「分かってるてぇ…」勲は早足になる。「おばさま、おはようございます!私が付いていますから、大丈夫ですよ」やけに操が大人びて、勲の目には映る。
 深江橋のバス停留所から梅田の阪急百貨店へ行くには、天満橋行きに乗り、天満橋で大阪駅前行きに乗り換え、終点で降りる。およそ五十分、駅舎の東に阪急百貨店のビルディングが聳え立つ。その南西の斜め向かいが阪神百貨店だ。
 勲と操は一階中央のエレベーターで屋上に上がる。他の階での道草は厳禁だ。母は勲の心境は、とっくにお見通しなのである。
 屋上には小さな遊園地があり、日曜日の家族連れで賑わう。そちらに未練たらしい視線を送る勲を急かして操は、勲の手を取り、花屋に入る。勲の胸ははち切れんばかりに鼓動する。女の子の手を握ったのは初めてだ。操の手はほっそりとしていて、スベスベで柔らかい。夢見心地、このまま永遠に握っていたい。夢は儚いー手を離した操が店員に「スミマセン、つめきり草とおじぎ草の種、ください」と、今日の趣旨を事務的に告げる。
 つめきり草の種は有ったが、おじぎ草が無い。操が眉を顰める。「藤田クン、どうしよう?」やはり、女だ。男の勲を頼っている。「向かいの阪神百貨店に行って見たら…」女性店員が言う。「そうします」と、操。「余計なこと言いよってからに、ボクの立場台無しやないか!」心の中で勲は、毒付く。

愚図愚図と酔いしれて…【042】

 五本の国道が変則的に交差する大きな交差点の信号を何回か待って、勲と操は阪神百貨店に入る。大阪の北と南に集中するいずれの百貨店も、花屋は屋上に小さな店舗を構え、遊園地も完備している。昭和三十年代、市内中心部に展開していた百貨店はどこも活況を呈していた。休みの日、家族連れ、若いカップルは余所行きを身に纏い、百貨店を目指す。一階から屋上までの各フロアでウインドウ・ショッピングを楽しむ。物を買わなくても、広いフロアに百花繚乱の如く陳列されている品々を見て回るだけで、優雅な気持ちにさせられる。そして一行は階上の大食堂でランチを摂る。食堂の周りのガラス越しには、市内の風景がパノラマのように広がっている。当時、百貨店より高いビルはどこにも無かった。
 昼食を終えた一行は屋上の遊園地へー。若いカップル達は、屋上の柵辺りに置かれた二人掛けのベンチに陣取り、市内の街路を俯瞰しながら、恋を囁く。家族連れはというと、遊園地でしばしの一家団欒の時を過ごす。百貨店は庶民にとって《玉手箱・おもちゃ箱》なのである。
 「ゴメンね、おじぎ草の種、置いてないのよ」「藤田クン、どうしよう?」そら来た!「ほんだらミナミに行こ!」今度は女性店員の先を越す。ミナミには御堂筋沿いに、そごう、隣に大丸、御堂筋の突き当たりに髙島屋の三店が軒を連ねる。御堂筋の東、一筋目の南北に延びているのが天下御免の『心斎橋筋』東京の『銀座通り』と並び称される道筋である。銀座をブラブラする様を『銀ブラ』心斎橋のそれを『心ブラ』と言われるほど、全国的に知られた繁華街である。
 時刻は十二時を回っている。「藤田クン、何で行くの?」やはり、女、男に頼っている。「操ちゃん、歩けへんかぁ?」深江橋から天満橋乗り換え、大阪駅前着―。バスの中で勲は、窓側の席に座り車窓を眺めている操の横顔を、うっとりと見ていた。時間を止めたかった。梅田から難波へは、市バスと地下鉄が走っているが市内に繰り出す人の波で、バスも地下鉄も混むに違いない。そんな中に操を詰め込むのは、嫌だー咄嗟に勲の脳裏に浮かんだ光景だった。「でも、遠いんじゃないの?」「そごうと大丸は、髙島屋のある難波の手前の心斎橋や、そんな遠ないで」「何キロ位なの?」「(知らんがなぁ…)近いでぇ…二キロぐらいとちゃうかぁ」四キロはある。子供の足で何分掛かることやら…。「ええ天気やし、歩こうな、ええやろ?」「どうしてそんなに歩きたいの?」「どうしてて、どうしてもや!」駄々っ子を見つめるような眼差しで操は、同意する。操が途中、歩き疲れたら手を取ってやろうと勲は、企む。

愚図愚図と酔いしれて…【043】

 阪神百貨店を御堂筋側に出た二人は、梅田から心斎橋までの未知の道程を南へと下る。大江橋を渡る時、左斜め前に『中央公会堂』の赤レンガ造りの建物が見えてくる。「操ちゃん、今度、中央公会堂の写生にけえへんか?」「藤田クン、絵じょうずだものねえ」褒めてくれんでええねん、一緒にきたいねん!左に大阪市役所、右に日本銀行大阪支店の重厚な建物が見える。「中之島公園や、ちょっと休憩しょうか?」「道草厳禁…」人の気も知らんと、お母ちゃんみたいなこと言うてからに!淀屋橋を渡り、本町を目指す。
 春の陽光を浴びた御堂筋のいちょう並木の銀杏の新芽が、眩しい。勲には、操も眩しい。
 本町二丁目の交差点の右手に『西本願寺津村別院』の寺院が、並木の向こうに見え隠れして来た。梅田と心斎橋のほぼ中間、目的地まであと半分、もう、一時間以上は歩いている。午後一時三十分―やはり、小学四年生の足で四キロの道のりは、きつい。本町四丁目の交差点に差し掛かった時、勲と操はどちらともなく手を出し、繋いだ。疲れがピークに達し始めた。昼食・飲み物抜きでの春の日行軍―今のように街頭のそこここに、ドリンクの自販機なんて無い。勲も操も頼れるのは、相手だけだ。操が歩き疲れたら、勲が手を取ってやろうという企みは、こんな形で実現した。元々、操にはそんな考えは微塵も無い。勲も今は企みのことなど、すっかり忘れて、ひたすら心斎橋・そごうを目指す。
 長堀通りが見えて来た、通りを越えた左にそごう、大丸は在る。ほうほうの体で、そごうに入る。ここにも、おじぎ草の種は無い。大丸に行く。屋上に上る、花屋に入るー有った!勲と操は抱き合って、歓喜する。女性店員は訳が分からないながらも、小さな二人の大仰な仕草に微笑む。

愚図愚図と酔いしれて…【044】

 大丸を出て心斎橋筋の賑わいの中を、勲がおじぎ草、操がつめきり草の種の入った紙袋を引っさげて、ミナミに下る。もう人ごみなんてどうでもいい。戎橋を渡り、道頓堀の左手に『中座』が見える。「操ちゃん、あれが、中座、や、で…」「藤田、クン、がよく、出演してた、と、こ、ろね…」会話はここまでで終わる。
 午後四時過ぎ、二人は戎橋バス停から「諏訪神社行き」に乗る。四十分―、深江橋到着。角を左、右、左に折れると、道の向こうの勲の家の前に、勲と操の母がこちらを窺っている。帰りが余りに遅いので心配になって、道端で待っていたのだ。
「勲、どこで道草してたんや!操ちゃんが一緒やというのに!ほんまにこの子いうたら…」「どうしたの?操…」「おじぎ草の種、阪急にも阪神にも、そごうにも無くて大丸でやっと見つけたの…」「まさか勲、梅田から心斎橋まで歩いたのと違うやろね?」「……」「磐田先生から預かっていた学級費、無駄使いしないほうがいいと藤田クンが言ってくれて、私、そのとうりだと思って…歩いたんです」「藤田クン、さすがは級長さんね、賢いわ」「そんな…」勲は口籠る。「二人とも昼ご飯、食べてないんでしょ?お母さん、これから勲クンを夕食に招待していいですか?」「そんな招待やなんて…」「いえ、今日は最初から勲クンを夕食に誘ってあげてと、操からせがまれてましたの」えっ、操ちゃんがぁ…勲は操を見た。操は左目でウインクをよこす。勲の疲れは一気に吹っ飛んだ。
 勲と操の《初めてのお使い》は、こうして大団円を迎えた。
 この歳の秋、おじぎ草は小さな花を花壇に咲かせた。

愚図愚図と酔いしれて…【045】

 勲は相変わらず、子役に忙しかった。
 定席は『中座』の松竹新喜劇で渋谷天外以外にも、曾我廼家明蝶、曾我廼家五郎八らが主演の芝居にも出た。アルバイトもあった。中座の左斜めに建つ、食堂ビル『ドウトン』。劇団「こびと座」の女性マネージャーと手を繋ぎ、ドウトンのビルの一階を入って行くーというテレビCFだが、勲の家にはまだテレビは無く結局CFが、どんな上がりだったのか勲は知らない。
 中座の東に『角座』がある。両劇場共、松竹の持ち物で角座は落語や漫才の出し物で賑わう。角座でも漫才さんらによる芝居があり、その子役として勲が借り出される。便利使いだったのだろう。こちらの舞台は台詞が多い。それも台本無しで、舞台監督の藤岡さんが稽古の際、口移しで台詞を教える。漫才さんらは、ほとんどアドリブで楽しんでいる。
 勲は角座の舞台が好きだった。客層も中座とは違って庶民的で、時々客席から野次が飛び、それに漫才さんらが応じて、そのやりとりに客席は笑いの渦となる。中座でこんなことは、絶対に無い。子役の勲の台詞にも笑いが来る。件の『馬喰一代』の「おっ父~!」は、泣かせの場―勲には理解し難い場面だ。ところが角座の芝居は現代劇で、ストーリーも単純で客を笑わせるのが目的である。「ボクの台詞で、みんな笑うてくれてるぅ…」勲がこれまで体験したことのない、快感だった。
 人を笑わせることに勲は、嵌まった。悪戯と笑いを取る事―この快感が五年生になって、勲に大変な屈辱を味わわせることになる。
 特別席での授業・・・

愚図愚図と酔いしれて…【046】

 勲は一学期が始まってから、ソフトボールのチームを結成した。阪神タイガースの名遊撃手・吉田義男の大ファンだった勲は、近所の小学生を集めて三角ベースの野球を楽しんだ。三角ベースとは、ホームベースと一塁・三塁だけの逆二等辺三角形のフィールドだ。
 これだと、ピッチャー、ファースト、サード、センターの一チーム四人、計八人で試合が出来る。キャッチャーはいない。というのもボールは軟球、軟式テニスみたいな柔らかいボールを使うので、バッターが空振りしても後ろに逸れたボールは、バッターが拾いに行けば事は済む。道具は一個のボールとバット一本、グローブなど要らない。グランドは、田植え前の田圃だ。三角ベースと言っても、ベースなど無い。棒切れで逆二等辺三角形を地べたに描き、三つのベースを三つの角に描けば準備完了。内野ゴロが面白い。ゴロを打つと、田圃の地面に残った稲の刈り跡が、パチンコ台の釘よろしく、ボールはあちこちに転がる。この競技、野球の体をなさない。しかし、面白い。大体は低学年の子供たちの遊びだ。「四年にもなって、やってられるかい」勲は母に、グローブとバット、ソフトボールをねだった。「遊ぶことばっかし考えんと、勉強しい!」けんもほろろに拒否された。
 姉はこの春、大学を卒業して綿花を主に扱う商社に就職した。「いさちゃん、お姉ちゃんの初月給で買うたげるわ」姉が神に見えた。よく、神に見える奴だ。自転車の時は父が、神に見えた。

愚図愚図と酔いしれて…【047】

 初月給が出た日の夜、姉に連れられて勲は、新道筋にあるスポーツ店「奥村スポーツ」に向かう。何故か、母同伴だ。「何で、お母ちゃん付いてくるんやろ?」新道筋商店街は、あのF駅北口商店街の十分の一位の規模の商店街だ。そこにある「奥村スポーツ」は、母の婦人会の友人の長男が経営している。母は勉強してもらうつもりのようだ。〝勉強〟とは、大阪商人と客の間で交わされる言葉だ。「これ全部で、なんぼ?」「三千三百円ですわ」「もう一寸、勉強してえな」「かなんなあ…これで目え一杯ですわ」「そう言わんと、また買いにくるさかいに、勉強したりいな」「…しゃあないなあ、ほな三百円、勉強しときまっさ!」「おおきにありがとさん!」三百円引きで商談成立。
 実際、母はグローブ、バット、ソフトボールをセットで三千円で話を付けた。おまけにグローブの皮を柔らかくする、ドロース液まで付いて。
 スポーツ店の向かいには、お好み焼き屋「光月」がある。店のおかみさんが、母の友人、つまりスポーツ店の主人の母である。
「藤田はん、また値切ったん違う?」「おおきに、助かったわ。なんせ娘がお金出すんやさかいになあ」「おばさん、すみませんね」姉も一番上の兄同様、育ちがいい。
「光月」のお好み焼きは、そこいらの店のものと違い、上品で美味い。どこがどう違うのか勲には分からないが、まず、形が楕円形で薄い。味付け海苔が二枚乗っていて、仕上げに辛子を表面に薄くのばし、マヨネーズと特製のソースを塗り、花かつおをタップリ振りかけて出来上がり。「フォフフォフ、ふぉいしいな」こんなに美味いものが、この世にあるだろうか―例によって勲は、このお好み焼きに、嵌まる。「フォフフォフ、ひさほ、ふぁい事にふかわなアカンふぇ」「ふぁかっへる」「ふぃふぁちゃん、フォフトフォールのフィーム、作るんひぁて?」「ふゅん!」「へえ、いさちゃん、ソフトボールのチーム作るん?おばちゃん、応援するわな!」「ふぉおきに!」
 その夜、勲はグローブの内側にドロースを塗り、ソフトボールを中に入れ、敷布団の下に敷き、枕代わりにして眠った。グローブの形を整えるための、勲なりのアイデアだ。

愚図愚図と酔いしれて…【048】

 ピッチャー・藤田勲、キャッチャー・中村豊、ファースト・酒井幸一、セカンド・宇都宮憲次、サード・大蔵満、ショート・古谷十四郎、レフト・水原繁樹、センター・井上宏、ライト・鈴木清文。四年三組のソフトボールチームが結成した。
 他の四つの組には、まだソフトボールチームは無かった。だから四年三組チームは放課後、運動場の片隅で打撃、守備、走塁の練習に明け暮れた。自分のグローブを持っていない選手には、磐田先生が体育の授業で使うものを貸してくれた。
 格好もバラバラだ。私服の奴、体育の時のトレパンに体操服姿、上だけユニフォームの奴―この姿は間が抜けていた。上下ともユニフォームは酒井だけ。ええしの子だ。この時代、親の仕事、収入の差が子供たちの服装の差に如実に表れていた。ここで勲は、一計を案じる。
 チームの統一を図るため、全員に体操服を着用させた。そして、磐田先生に懇願して輪ゴムを一箱、拝借する。校庭の隅にチームメートを集め、講釈をたれる。「四年生で初めてのソフトボールチームの誕生や!」拍手が沸く。「そやから不細工な格好で野球したら、三組全体の恥や」「そやそや!」全員の合意の声。「皆、腰下ろせ」勲は、一人ひとりに輪ゴムを十本ずつ手渡す。「こ、こ、これ、な、な、なに、す、すんねん?」井上が不審気な顔で、聞く。「アホかお前は、ゴム鉄砲して遊ぶんやんけ」と、水原。「黙って聞け!皆、トレパンの裾、上げ……ほんで膝小僧の下で両足とも裾を、輪ゴムで止める」勲が動作で示す。「止めたか?ほんなら、膝のとこのダブついてるトレパンを下ろしてみい」不思議ではあるが、チームメートは勲の指示に従う。「どや?ユニホームの格好になったやろ!」立ち上がった皆の顔がほころぶ。
 トレパンは、膝の部分でふっくらと止まっている。脛の部分と靴下までは、肌が見えているが、アンダーソックスを履けば、立派なユニフォームだ。こうして一応、全員が揃えのユニフォーム姿に変身した。

愚図愚図と酔いしれて…【049】

 練習を指導するのは、キャプテンの勲とサードを守る副キャプテンの大蔵満だ。勲は級長、大蔵は選挙で次点に泣いたが、クラス一の勉強家だ。二人ともプロ野球の大ファンでルールや、練習内容をよく知っていた。しかし勲は、大蔵の三塁手に難色を示した。というのも、大蔵は左利き。「左利きのサードなんか、見たことも聞いたことも無いぞ」「そやからオモロイんや」結局、選手の多数決で大蔵のサードは決まった。この時初めて勲は、ライバル意識という感情を持った。
【戦い―】
 他の四組にもソフトボールチームが出来、五クラス対抗戦が行われた。組み合わせ抽選で勲の三組はシードされる。
 一回戦は、一組対五組、二組対四組、二組と四組の勝者と三組が戦う。一組対五組の戦いは、一組が7対3で勝ち上がった。二組対四組は、四組が3対1で勝つ。
 三組と四組の二回戦―先攻の四組のトップバッターは左利きのマッカだ。マッカはインコースに弱い。勲はそこを攻める。二球ファールの後のインコース低め、マッカのバットは空を切る。「三振、バッターウオ~ッ!」主審は一組担任のライオンこと杉山龍馬先生。勲は、どうもこの先生が苦手だ。理由は五年になって、分かる。
 勲は一回を三者凡退に押さえた。三組のトップバッターは、キャッチャーの中村。足がクラスで一番速い。一球目からショート左横深い当たり―俊足を駆って、一塁悠々の内野安打。二番、セカンド・宇都宮。勲は送りバントのサインを出す。「消極的やなあ…」大蔵が呟く。「うるさい、キャプテンは俺や!」「失敗したら、どないすんねん?」「失敗を先に考えとって、野球、できるかあ!」
 宇都宮が勲を、窺っている―バントのサインをもう一度、出す。一球目、外角ぎりぎりのストライクを見逃し。二球目のインコースにバットを出す。ファールチップ「ツーストライク、ノーボール、ウォ~ッ!」「ほら、言わんこっちゃない…」大蔵が呟く。「宇都宮、頼むぞ…お前は俺の仲間や…」勲の心の囁き。

愚図愚図と酔いしれて…【050】

 宇都宮とライトの鈴木は、勲の子分である。毎朝、勲の家に迎えに来る。玄関のベルを鳴らす前に二人は儀式をする。玄関横の柱に祝日に立てる日の丸の竿を入れる、鉄製のコ型をした金具が取り付けられている。その金具に左手の人差し指と中指二本を下から入れ、指を手前にして鉤型を作る。それを手前に三回、引く。その時「な・か・ま」と呟く。これが勲の考え出した、儀式だ。
 ベルの音に誘われて勲は、玄関を出る。「行って来ま~す!」外に出た勲は、二人に聞く。「儀式、やったか?」二人は頷く。勲は右手の人差し指と中指を立て、唇に当ててその指を金具に、そっと触れる。「行こか…」これで、朝の荘厳な儀式は終わる。西の角を左に曲がったところで、勲は、ランドセルと上履きの袋を、二人の子分に手渡す―。こんな光景を母に見つかったら、どうなることやら。
 三球目、四球目はボール。ツーストライク、ツーボール。宇都宮が又、勲の方に視線を遣る。勲は、右腕の拳を二回振る。五球目はド真ん中、宇都宮は、思い切りバットを振る。「アホ!」「三振、バッターウォ~ッ!」「ほら見てみい…」捨て台詞を残して大蔵は、バッターボックスに向かう。「じんけやみのつう!お前なんでバントせえへんかってん!」「そやかて藤田、右手、二回振ったやんけ…」「そんなサイン、作ってえへんやろ!行け行け言うこっちゃ!ボケ!」「……」ウワ~ッ!」三組の応援席で歓声が上がる。大蔵がレフト・センター間を深々と破るヒットを放った。一塁ランナーの俊足、中村が長躯ホームイン、打った大蔵もセカンドベースを蹴って、サードへ。タイムリー三塁打だ。「キャ~ッ!」操も応援席で跳び上がっている。「クソ~ッ!大蔵、ええ恰好しやがって…」ライバル心、丸出しの勲、四番バッターの面目に懸けても、ここで打たねばならぬ。
 気負ったせいか、勲、空振りの三振。続く酒井はセカンドフライで、スリーアウト。
 回は進み、最終七回の表、1対0、三組リードで既にツーアウト、カウント2―2、ランナー無し。勲、振りかぶって、ド真ん中への速球。「三振、バッターウォ~ッ!」
 1対0の完封勝ち。しかし、シャットアウトした勲より、1打点をあげた大蔵の方に熱い視線が送られる。「お前ら野球知らんのか!野球の基本は、守備なんや…」

【一挙掲載版】其の六
【連載】は…まだまだ続きます!ご愛読頂ければ幸いです!

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